服部弘子

20230216マイストーリー

■ピンピンキラリのために何をしたらいいのかわからないあなたへ

主人が、膵臓がん末期で、余命宣告された1990年1月の寒い日のこと、

私は、絶望の淵に立たされたのです。

いつ迄もいつ迄も一緒にいたい大切な人だから、

信じられないし、受け入れたくない。

あっという間、6月14日に主人は旅立ってしまったのです。

その日は6月だというのに台風の様な雨や風が吹いてまるで私の心の様な日でした。

私は、混乱していました。

46歳で私は、未亡人になったのです。

 

その日から私は抜け殻のようです。

生きて行く気力も無く

毎日泣いてばかり、

さみしさを紛らわすために、

毎日、祇園で飲み歩いていたのです。

半年ほどたったある日

お酒の匂いをさせて電車に乗る私をみた友人が

「未だそんなことをしているの?

いつまで甘ったれているのしっかりしなさい」

と言われました。

我に返り、ハッとしました。

 

そうだ私には主人の形見の大切な3人の子供がいるんだ

と気づかせてくれたのです。

 

その日から私は、主人を亡くしたさみしさを、

家族を守るエネルギーへと変えることができたました。

私を思ってハッキリと言ってくれた友人には、本当に感謝です。

 

私には、3人の子供の成長と独立を見守り、

そして姑さんをしっかり見送る義務をはたすのだ。

主人の出来なかったことを担っていく義務があると、

生きる意味が明確になりました。

その為に私は健康でいなければなりません。

決意のため、ヨガスクールに一括で100万円投資しました。

78歳元はとれて、私は健康です。

 

やはり、健康といえば、食べるものが大切だと思っていました。

お口からは体にいちばん良い食品を取りたいと常々思っていましたが、

年齢と共に、消化吸収の衰えを感じるようになり、

良いものを取っても吸収されていないのではと感じていたのです。

そんな時、友人が素晴らしい食品を教えて下さったのです。

摂り始めてすぐに、砂漠に雨が降ったようなイメージで、体が喜んでいるのを感じました。

これだこれ、栄養が吸収されている。

79歳になりますが、認知症もなく、zoomでスクールに通って学びもしているんです。

姑さんを見送り、子供たちも自立しました。

 

これからは、健康で元気に、まだまだ輝きます。

 

大切にしてくれる仲間にも支えられ、

 

ピンピンキラリで、

生きていきたいと思う日々、

 

いろいろな事があったけど、

79歳、私は、幸せですよ。