石田京子

20221129マイストーリー

▶ドラッグストアの涙

■石田京子マイストーリー

 

あれは忘れもしない2016年花冷えの夕暮れ時、ドラッグストアに日用品を買いに行った帰り道のことです。

 

私は、右手にティッシュペーパー5箱入り、左手にトイレットペーパーをぶら下げて、人目もはばからず顔中を涙と鼻水でグチャグチャにして、声をあげて泣きながら、娘が一人待つ家に帰り、玄関を開けました。

 

 

 すると、「なんだ、お母さん、また泣いているの?いくら泣いたって、お父さんは帰って来ないんだよ!それに、泣いて暮らしても、笑って暮らしても、お母さんの人生なんだよ。」と、高校2年生に進級したばかりの娘に大笑いされ、諭されたのです。

 

そして、こうも言われました。「お母さんは今まで、いっぱい苦労したんだから、きっとこれから幸せになれるよ!」

私の夫は29歳の時に突然、若年性糖尿病になり、急性、劇症型で、神経障害や鬱などの合併症を同時に発症。それから約20年、良くなったり悪くなったりを繰り返す闘病と介護の末、風邪をこじらせたことから、48歳という若さで、この世を去りました。

 

それが2014年の春、娘が中学3年生になる少し前でしたので、それから丸2年経ち、3回忌を終えても私は泣いてばかり…

 

 

特にドラッグストアでは、もう調剤薬局で主人の薬をもらうこともないと、思い出しては涙、また別の日は電車の中で、主人に似た背格好の人に着いて、知らない駅で降りてしまったり、そんなメソメソダメダメ母さんでした…

 残された母子の現実はとても厳しく、特に経済的にはどん底でした。

 

夫が亡くなって発覚した義父の借金などの負債、夫は若い時に病気になり保険一つ入ってなく、長年の治療費や高度医療の支払いで貯金はおろか、娘との生活費、学費の捻出に私は途方にくれていました。

 

「これは一体誰の人生なの?」と叫びたい気持ちを押し殺し、寝たら、もう二度と目が覚めませんように、と願った夜もありました。

 

若い頃に経験した保育士や、保険会社の仕事も考えましたが、どちらもパートにして掛け持ちでやっても追いつかない…50歳を越えた女性を良い条件で採用してくれるところは、そんなに簡単には見つかりません。

2ヶ月くらい悩んでいると、以前携わっていたノニジュースの会社の食品科学者であり、経営者の一人だったジョン・ワズワース氏が、新しい会社を起こすという情報を、信頼するAさんが伝えてくださいました。

 

なんだか良く分からないけど、凄いことになる予感がしました。製品やプランどころか、社名も、日本の社長もまだ決まっていませんでした。

 

それでも

"スーパーフードで世の中に革命を起こす!"

"サンキュー3×9ありがとう5万円"

などのスローガンにワクワクし、

 

"お母さんを家庭に返えそう!"で、私の保育士魂に火が着きました。

 

多くのネットワーク難民、そう二度とネットワークビジネスはやらないと言っていたような人々が、ゼンノアに希望の光を求め、続々と集まって来ました。

 

 

私達は数ヶ月、ゼンノアの立ち上げ部隊として、寝食を忘れて働きました。登録の手続き書類もまだ、会社のコンピューターがないので手入力でした。我が家のFAX、パソコン、電話は、使い過ぎて壊れました!

 

 

日中は、とにかく人に会う為に時間を使い、家には寝に帰るだけのような日々、娘も部活に明け暮れていたので、ちょうど良かったのです。

 

 

 

それまでの私のネットワークビジネス経験を例えると、公園の手漕ぎボートがようやく漕げる程度。

 

ゼンノアの仕事は、いきなりクルーザー免許を取り、海上に出航するようなもので、気がつくと3年で2000人の人が乗船する豪華客船になり、大海原に出ていました!

 

 

夫の負債は完済し、高3の娘の最後の吹奏楽コンクールには、自分の楽器を買ってあげることも出来ました。

 

 

 

もし、私に、このゼンノアとの出会い、ネットワークビジネスとの出会いがなく、またチャレンジをしていなかったらと思うとゾッとします。

 

世の中に素晴らしい仕事は沢山あると思います。でも、50歳をとうに過ぎた、貧乏シングルマザーの人生を、こんなにも変えることの出来る仕事が、どこにあるでしょう?

 

そして、この仕事での出会いと経験は、一生の宝物になります!

 

私はゼンノアビジネスを通して、自分の運命をも喜びに変えられる経験をさせていただきました。

だから、今、出口のないような辛い経験をされている方が、環境次第ではなく、自分次第で、自分の人生を信頼出来るようになる為の、お手伝いをさせていただきたいと、今日もワクワク前進しています。